あのころ

あのころ

妙円寺には大正8年から子ども会があり活発に活動していましたが、戦後さらに大きく発展し、一時期は100名ほど会員がいる大規模な会となりました。

戦争中、妙円寺は空襲で浄行菩薩堂以外ほぼ全て焼失、近隣の皆様も大変苦しい生活を送っていました。そんな中でも、せめて子供達には楽しく毎日を送ってほしい、という先代住職の願いがユニークな活動を多く生み出しました。

少子化などのため妙円寺子ども会は現在休止中ですが、このコーナーでは当時の活動の一部をご紹介します。

子供ひな祭り

ひな祭り

子ども会の活動の中でも特によく知られていたのが、子ども達が雛人形に扮しひな壇にならぶ「子供ひな祭り」です。テレビや新聞でも盛んに報じられました。画像は昭和55年月日付「毎日こどもしんぶん」のものです。

この行事は終戦直後の1947年から行われるようになりました。子供達の多くはバラックの仮住まいで、着るものも食べるものも不足し、当然雛人形などなく、ただ焼け跡で遊ぶだけでした。

そんな中、先代住職は子ども達に雛祭りの楽しさを伝えようと思い立ち、あり合わせの材料で雛人形の衣裳を作りました。
袴や着物の縫製は檀信徒の皆様にもご協力いただき、ふすまに金紙を貼って作った金屏風など、全て手作りで行いました。

当初は粗末なものばかりでしたが、娯楽など殆どない時代、着物を着て即席のひな壇に並んだ子供たちは大喜びでした。
後年は余裕も出てきて、着物は貸衣装を借り、本格的な「人間雛祭り」となり、長い間大勢の人々で賑わいました。

映画部

映画部1
映画部2

全国的にも大変珍しいと思いますが、妙円寺子ども会では映画制作を行っていました。
器材も本格的なものを使用し、第1作目の「勇ちゃんの冒険」(子ども会の内田勇さん主演)は映画祭で賞をいただき、何とアメリカではテレビ放送もされました。
第2作目は「日本一の桃太郎」、その後も幾つかの作品が制作されました。
画像は「少女ブック」及び昭和35年1月17日付「少年サンデー」のものです。

華道部

華道部

こども会には華道部もありました。記事は昭和34年4月4日付読売新聞のものです。蓮光子ども会創立40周年記念と銘打ち、子供たちの情操教育の一助とするため「子どもいけ花展」が開かれました。

先代住職ほか、長年妙円寺にお勤めで、子ども会華道部の先生だった大島キンさん、薄井ひろ子さんが指導に当たりました。
先代は、「今までの流派では子供には難しく理解できない。形式にとらわれずに、子供の自由な考えや夢、空想を発揮できるようなものにしたい」と「いけ花で書く絵」を考案。
「かぐや姫」「舌切りスズメ」「一寸法師」などの童話、「春の小川」「お山のスギの子」などの童謡からヒントを得たユニークな作品が多く生まれました。

科学部

記事は昭和36年12月14日付産経新聞のものです。
この年渋谷区では、初冬になっても蚊が増え続けるという異常事態となり、区民を大いに困らせていました。

子ども会には科学部があり、この部が原因究明のため調査を開始。浄化槽の普及が大きな原因であることを突き止めました。
また保健所は当時、秋の蚊は人の血を吸わない「ユスリカ」との見解でしたが、実際は血を吸う「赤イエカ」である事も子ども会の研究により判明。
この調査結果を元に、渋谷区の蚊対策が進んでいきました。

野球部

野球部

こども会には多くの部がありましたが、やはり一番人気は野球部で、多い時期にはこの部のお子さんだけで50人以上在籍していました。

1970年代から80年代にかけてはかなりの強豪となり、大会でも好成績を数多く収めました。
後に甲子園まで進んだ方や、親子で野球をされ、現在ご子息がジャイアンツの選手、という方もいらっしゃいます。
記事は昭和39年8月29日付サンケイ新聞のものです。


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